<健友館はかた整体院 院長プロフィール>
[院長の個人的な歴史] ムダに長い@読みたい人だけ読んでください
2.高校入学〜高校卒業
3.コンピュータ会社へ就職
4.インターネット(ホームページとの関わり)
5.トライアスロン(健友館との出会い)
6.受講案内書請求〜申し込み
7.受講開始(自宅学習)
8.実技指導教室へ参加
・講習会で事故発生
9.養成所卒業〜コンピュータ会社退職
10.いざ健友館本部へ
11.健友館本部での修行開始
12.健友館本部退職、独立開業へ
小学生の頃の私は勉強や運動など、何をやらせても可もなく不可もなくというような感じの子供でした。 学校の友達と遊ぶよりも近所の年下相手にガキ大将のようなことをやっていることが多かったと思います。
小学校2年から6年までは父親の(強制的な)勧めで柔道場に通っていました。
他にもソフトボールやバスケットボールなどの運動系の活動をしていましたが、
体格は同級生と比べると小さいほうで、足もたいして速くありませんでした。
だから本当は休み時間になると図書室に通ったり、家庭科部や将棋部に入るなど文科系のほうが好きでした。
中学になると環境が激変しました。
父親が病気で倒れて入院、手術後そのまま病院で亡くなったのです。
父親はカバンの製造の仕事をしており、個人事業の経営者でした。私は長男なので漠然と
「大人になったらこの仕事を継ぐんだろう」という感じでいたのです。
だから将来の夢というのもあまり考えたことがありませんでした。
それが父親の死去に伴い、営業権利を従業員に譲渡したため自分の将来が全く白紙になったのです。
でもとりあえず分かったことはあります。それは「とにかく働かなければならない」ということです。 私は3人兄弟の長男で2つ下と5つ下の弟がいます。 育ち盛りの3人の子供がいて、生活するのは大変だということはなんとなく分かったのです。 といっても義務教育中なのでやれることは限られます。友人に誘われ、朝刊の新聞配達をすることにしました。
幸いにもうちの母親が看護師をやっていたので生活はなんとかできました。
そういうこともあって、新聞配達のバイト代は家には入れず自分のこづかいにしていました。
そのことは後々になって後悔はしたのですが、うちの母親は「自分のこづかいを自分で稼いでくれて助かった」
と私を非難することなく言ってくれたのを覚えています。
その母親が「高校だけは行かせてやる」と言ってくれました。
中学卒業後は働くつもりではいたのですが、母親の言葉に甘え、高校に行くことにしました。
高校は近くの工業高校にしました。
どうせ大学には行かないので、普通科に行ってもしょうがないというのが一番の理由です。
そろそろ就職活動というときになってやっと「自分は何をやりたいんだろう?」と考えるようになりました。
当時はバブル経済の恩恵で売り手市場。私は特に成績が悪い生徒では無かったので、
希望すればある程度のところはいけるだろうという感じでした。
部活動を続ける中、ファミリーレストランのチェーン店でのアルバイトもしており、
そこからも「卒業したら来ないか」と誘われもしました。
そんな中、就職先として選んだのがコンピュータ会社でした。
今の工業高校は情報制御などコンピュータを使った授業も多く、女生徒もたくさんいるようですが、
私が入学した当時はコンピュータを使うのはほんの一部。それも今のような性能のいいパソコンはありません。
どちらかというと溶接や旋盤、鋳造といったモロに製造業といった男クサイ授業が多かったのです。
だからコンピュータには縁があまりなかったのですが、感覚的に
「これからの時代はコンピュータの知識が必要になってくる」と思ったのです。
そして、同年代の人が大学に行ったあと就職するように、
私も「大学に行ったつもりで4年間働きながらコンピュータの勉強をさせてもらい、
その間にやりたいことを見つけよう」と思ったのです。
結果的にはこの道で正解でした。4年後、すでにバブルは崩壊し、大学に行った同年代の人たちは就職難で苦しんだのです。
「大阪の人が地元を離れるのって珍しいね」とよく言われました。 これはうちの家の暗黙のルール「高校出たら家も出る」というのが一因です。 別に関東にあこがれがあったわけではありませんが、大阪にいたら実家をどうしても頼ってしまうと思ったのです。 どうせなら大きい企業と思い選んだ会社がたまたま関東にあっただけの話しです。
(弟2人も高校卒業後、一度は実家を離れ、寮生活などを経験しています)
さすがは大企業なだけに社員教育には力を入れていました。
3ヶ月間は部課に配属されず、総務課管理の下、コンピュータの基礎を勉強させてくれました。
「コンピュータ」「プログラマ」と語尾を伸ばさないのもその会社で学んだときの名残です。
私が就職したのはコンピュータのソフトを作る会社だったのですが、ハード(コンピュータ本体)を作る工場への研修にも行きました。
そこにいたある先輩に言われたのが、
「いつも普通にやっている仕事は誰でもできる。本当に必要とされるのはトラブルが起こった時に対処できる人間」
という言葉で、今でも印象に残っています。
研修後、そういう人に出会うことになります。
部課へ配属されたとき、周りは残業を毎日しているのに、必ず定時に帰って飲みにいくような人がいました。
担当する仕事が違うし、定時に帰るのは当たり前なのでいいのですが、正直「何なんだこの人は?」という感じでした。
ところが、どこかのコンピュータシステムにトラブルがあると必ず借り出され、そして不眠不休で解決するのです。
その時は「あんな感じになれたらカッコいいなぁ」と思いました。
しかし、現実は厳しく、コンピュータの世界についていけないと感じることも多くなり、
この先続けられるかどうかという不安のほうが大きくなってきました。
苦労して覚えた言語が使えなくなり、また新しいことを覚えていく・・技術革新でこういうことがこれからも起こるのだろう、 ますますついていけない・・・そういう思いが強くなった時期です。
そして、インターネットというものが普及し始め、部のホームページを作るという仕事が任されるようになりました。
私がホームページの勉強を始めた頃はホームページを持っているのは大きな企業くらいしかなく、
今のように初心者にも分かるようなホームページの作り方を解説してくれるようなところはありませんでした。
だから書店に行ってはコンピュータ雑誌からホームページに関する記事を調べ、情報収集をしていました。
ましてや便利なホームページビルダなどありませんから、タグをひとつひとつ手打ちで作っていました。
その時の名残で今でもホームページビルダを使わずメモ帳で手打ちしています。
(当然、このホームページもです)
また、仕事でキーボードを触るようになり、肩こりというものを感じるのもこの頃です。 仕事のため帰りが遅かったので、早朝からやっている治療院に通うことにしました。 しかし、低周波治療と短時間のマッサージを繰り返すばかりでよくなりません。 いつしか通うのを辞めてしまいました。
コンピュータの仕事を続ける中、トライアスロンにも挑戦していました。通常、トライアスロンといえば水泳約4km、自転車約200kmにフルマラソンという、完走するのに何時間もかかるスポーツです。 しかし、仕事が忙しく、それほどトレーニングする時間が取れない私がやっていたのは、オリンピックにも採用されている トータル51,5kmのショートタイプのものです。
実際にはこれでも大変で特に自転車が練習不足になり、大会でも2位が最高で優勝経験はありません。 (スイムランという自転車を抜いた「泳いで走る」という競技では優勝を何度か経験しています)
趣味や楽しみというより、競技としてやっていたので無理することも多く、練習不足のまま大会に出たりということが影響して、
いつしか左ひざを痛め、走るのがつらくなってきました。(現在、トライアスロンはやっていません)
そんなとき、トライアスロン雑誌に載っていた「整体師養成」の文字が目に飛び込んできたのです。それが健友館でした。
よく、整体師をめざす人は「自分が整体を受けて良くなった。だから自分もこの仕事をしたい」というのが多いのですが、
私の場合は通った整体で肩こりはよくなってません。
ですが、高校のときの部活動で痛めた腰を鍼治療で改善した経験が私にはあったのです。
だから手技療法自体にはとても興味がありました。
でも、高校卒業後にそれを学ぶ余裕はうちの家には無かったので単なる興味でしかなかったのです。
ただ「ダマされたりしないだろうか?」という不安もありました。
そこで、実際に指導が行われている東京の実技指導教室の見学に行きました。
午前の講習後、越田館長とお話しをさせていただくうちに、私に肩こりがあるという話になり、
その場で館長自ら施術をしてくれたのです。すると施術後に首や肩に血が通うような感覚があったのです。
ほんの少しの施術でしたがその効果を感じられ、これは本物だという確信を持ったのです。
その後、ほどなくして受講を申し込みました。
ただ、私は地元を離れていたので、家族はもちろん知り合いもいません。 知っているのは会社の同僚や寮に住む同期の人たちだけです。 でも、整体術を学んでいることを言うのは「私は会社を辞めますよ」と言っているようなものではないかと思い、 練習相手を頼むことはできませんでした。
では、どうしていたかというと、枕を相手に練習したのです。 長細い抱き枕のような枕を使って整体術の形と順番を覚えたのです。 もちろん枕ですから限界はあります。 でも、できないものはしょうがない、写真を見て覚えるだけ覚えておこうという感じで進めました。 そんなことを繰り返し、実技指導に備えました。
実技指導では受講生同士がペアになって練習します。私の相手はその中で最悪の人でした。(指導員として多くの受講生を見てきましたが、その中でも最悪だと思っています)
何が悪いかというと、とにかく人の言うことを全く聞かないのです。 越田館長がまず手本を見せてくれ、それをそのままペアになってやるのですが、今指導を受けたばかりの技術をせずに、 どこで覚えたのか自己流のやり方で全く違うことをやろうとするのです。
それなのになぜだか分かりませんが変な自信を持っていて、私が「間違ってるから教材を見て」「力の入れる方向が逆」 など間違いを指摘しても聞かず「お前は黙ってベッドに寝てろ」みたいな感じで接してくるのです。
年齢はだいたい50を超えたくらいの方でしたから、自分の子供くらいの歳の若造に指摘を受けてカチンときたのでしょう。 でも、相手がそういう態度だったので、私もだんだんとエキサイトしてきて必要以上に力をかけて押したりしたのを覚えています。 相手は弱みを見せまいと平然としているのですが、必死で我慢しているのはよく分かりました。 整体の時に力を入れすぎると良くないんだという教訓はこのとき学んだのです(笑)
そんな感じだったので私たちが練習するベッドは険悪ムードが漂っていて、周りからの視線もかなりあったようです。 (のちに同じ教室に参加していた人に、見ているほうがハラハラしていたと聞かされました)
そんな相手が急にだまりこくってしまう出来事が起こりました。首への施術を練習する際、「これだけはやっちゃいけないよ」と言われたことをやってしまったのです。 その被害を受けたのはもちろんこの私。うずくまったままの私の横で、立ちつくす練習相手。 そのせいで技術指導は一時ストップ。練習相手があきらかにあせっているのが分かりました。
うずくまった私がなぜそれほど冷静に状況を把握しているかというと、実はちょっと大げさに痛がってみせたのです。
もちろん本当に危険なことをされたし、痛みがあったのも事実なのですが、
相手の人に「自分の未熟さを分からせるチャンスがやってきた」と瞬間的に思ったのです。
だから、痛みが消えてからも数分間は痛みがあるフリをしていました。
その効果があってか、その後は練習相手が偉そうに振舞うことがなくなったのです。
最初に最悪だとは書きましたが、今思えば私がその人の相手で良かったのだと思います。
勉強の大切さを反面教師のように教えてくれましたし、何より自分が痛い思いをしたので、
こういうことをしたらどうなるかというのも学びました。
また「やっちゃいけないこと」を、もしもっと年齢の高い方や体のきゃしゃな人にやっていたら・・・
だから私で良かったのです。
平成8年8月のことです。
しかし、すぐにそれまでの会社を辞めて独立開業とはいきませんでした。
コンピュータプログラムの仕事というのはだいたい長期でスケジュールが組まれていて、 相手が大手企業の場合は3〜5年くらいになります。 私も当時プロジェクトの中に入っていたため、最低でもその仕事が終わるまでは勤めあげようと決心しました。
その間も技術指導があるときは極力仕事を休み、講習会に参加していました。 最初の受講時にいろいろと騒動があったので、越田館長や他の卒業生の方々からは2度と来ないと思われていたようですが(笑)
そして、プロジェクトも一段落し、勤めだしてちょうど8年となる平成10年3月に会社を退職しました。 ですが、フリーターで自由気ままなその日暮らしの生活を送ってみたかったので、 そのときは開業に向けて動くことはしていませんでした。 しかし、フリーターとなってからも講習会には欠かさず参加し、技術修得だけは怠ることをしませんでした。
ちょうどその頃、健友館本部が移転を計画し、整体院が大きくなるので人手が欲しいという時期でした。 その候補に私が選ばれ、本部で働いてみないかと越田館長からお誘いを受けたのです。 会社に勤めておらず、独り者で、まだ若いということもあり誘いやすかったのだと思いますが、 講習会に熱心に参加していたことが一番の理由なのでしょう。まさに自分の行動がチャンスをつかむきっかけになったのです。
自由気ままな生活に別れを告げ、私が本部のある石川県金沢市に行くことになったのは平成10年10月のことでした。
私が本部で最初におこなったのは、施術の見学と助手です。本部には越田館長だけでなく他にもう一人先輩の整体師がいました。
その先輩が本部で施術をはじめたのは、私が本部に行く2、3ヶ月前のことです。 それなのに症状の違う方々に対して、それぞれに違う施術ができていることに驚き、 自分も同じようにできるのだろうかと心配になりました。 でも、毎日施術をみているうちに施術の流れが分かり、 いつもは言われて取っていた整体用器具をあらかじめ準備することもできるようになりました。
最初は見るだけでしたが、しだいに館長や先輩相手に練習も行いました。
そのうち来院者への施術もさせてもらえるようになりました。
館長が施術する前に背中を数分ほぐすことから、だんだんとうつ伏せ全部、そして矯正、とステップアップしていきました。
初めて患者さんに対して施術するときは「手の震えがとまらない」と、よく耳にするのですが、私の場合、
館長や先輩の患者さんの施術の手伝いから入り、施術も最初は背中を数分だけ触らせてもらったりというところから入ったので、
手の震えというのはなかったように記憶しています。
また、最初の患者さんは忘れられないということもよく聞きますが、
自分の最初の患者とはいったい誰のことだろうという感じです。(イケナイコトデスガ)
自分の中では本部に行くのは弟子入りだと考えていました。
私は大阪の人間なので、弟子入りといえば漫才など芸事の世界のように、師匠の家の掃除や身支度など細々した雑用を全部やる、
とイメージしていたのです。
どんな仕事に就いても「1000日の修行」と言われます。
だからそれがどんなにつらくても3年はここで頑張ろうと思っていたのです。
でも、実際には会社員でした。住むところも館長の家とは違い、給料だって支払われます。だから8年も続けられたのでしょう
先輩も開業し、その後新しく入ってきた人も本部で修行した後、それぞれの地元で開業するために帰っていきました。 皆、独立開業を目標にして本部へ修行に来ているのですから当たり前なのですが、 2〜3年で人が入れ替わっていくことに違和感を覚えていました。
「本部に経験ある人がいなくていいのか?」「もし、自分がいなくなったらどうなる?」と考えたり、 卒業生の先輩からも「お前が本部にいるから俺たちも安心できるんだよ」と言われたりして、 なかなか本部を辞めて独立する決心がつきませんでした。
私は本部での修行中に結婚し、子供がいました。
子供が小学校に入学してからの独立では転校ということがからんでくるため、小学校入学までには何とかしたいと考えていました。
そして子供が6歳の誕生日を迎える前に本部を退職することに決めました。
退職を決めた当時、私の次に修行3年目となる後輩がいました。
「彼ならやってくれるだろう」と思い、その後輩に全てを託していこうと考えたのです。
後日、その後輩は館長の娘さんと結婚し、次期館長として今後の健友館の未来を背負って立つことになるのです。
(まるで漫画のような話しですが事実です)
もちろんその時はそんなことは知りませんでしたし、そこまでの期待はしてませんでしたが、私の希望は形を変えて叶ったのです。
平成18年10月、修行開始からちょうど8年となる日に本部を退職しました。
そして翌月の11月に福岡県福岡市に転居し、平成19年7月3日に「健友館はかた整体院」を開院しました。
ここまで読んでいただいてありがとうございます。
その後の院長の日々の行動や考え方ははかた整体院ブログをご覧ください。
